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2007年11月30日

関が原の戦いの発端

そんなことがあってのあの戦いだったのですね。
でも大勢の人を殺しあうこのような戦いはもう起こらないでほしいです。

家康は前田利家の嫡男の前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が存在したとして、容疑者として五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らに蟄居などの処分を下す。さらに前田利長に対する謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画した。利長は実母の芳春院を人質として下すなどして恭順的な態度を示し、前田家の地位は保全された。

1600年(慶長5)になると、家康は上杉氏の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として会津の上杉景勝に対して軍備増強を非難し、上洛して釈明するよう警告を出す。景勝の重臣である直江兼続は家康の警告を無視し、豊臣軍による上杉征伐が開始された。家康を総大将として、豊臣大名の多くがそれに従軍し上杉の領地である会津に向けて行軍を開始する。

失脚していた石田三成は大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧で伊予国の大名でもある安国寺恵瓊らと共謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。しかし、その最中に、細川忠興の正室である細川ガラシャは、石田方の人質になるのを拒み、キリシタンのため自害が禁じられていることから、忠興の家臣に槍で胸を突かせて死亡する。

家康は伏見城に残した家臣の鳥居元忠の報告で下野国小山(栃木県)において、三成挙兵を察知する。家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った(小山評定)。上杉討伐は中止され、真田昌幸や田丸忠昌らの大名は家康から離反することになるが、大部分は引き続き家康に従うことを決め、軍は西へと上ることになった。

家康の上杉征伐は石田三成を挙兵させるために行った策略だったという見方もある。畿内に隙を見せ、三成の挙兵を誘ったのである。この説に従えば、鳥居元忠は家康側が三成を攻撃する口実を作るため、死を必至とする任務についたことになる。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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